ある日突然、嵐のように。
『月と太陽に抱かれて』の番外編です。
前触れもなく、嵐は訪れた……。
民を苦しめた魔物騒動も解決し、ニグレドでは急速に復興が進んでいる。
大公妃ユーフェミアの評判も上々だった。遥か古代に存在した〈還元の巫女〉の血を引くユーフェミアは、その癒しの力により、視察や慰問に訪れる先々で熱烈に歓迎された。
ほんの数か月前までは特別な力など何も持たないごく普通の少女であったユーフェミアにとって、それは嬉しくもあり、同時に大層なプレッシャーでもあった。
そんなユーフェミアを、夫のニグレド大公ラースリオンと、その双子の弟である公子ヴェルメリオは、いつも優しく見守り、時にはからかいながらも気遣ってくれていた。
名目上の夫はラースリオンだが、実際にはラースリオンとヴェルメリオは魂をわけあう特別な双子だ。ユーフェミアにとってふたりとも恋人であり、夫である。
とても奇妙で完璧に調和した三角関係に、ユーフェミアがようやく慣れ始めた頃――。
思いがけない嵐が唐突にニグレド城を襲ったのだった。
嵐は、きまぐれで美しい少女のかたちをしていた。
しばらくして画家が引き上げ、ユーフェミアはホッと息をついた。隣でラースリオンが優しく笑う。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「でも、動いたらだめなんでしょ?」
「ちょっとくらい平気さ。そうだな、エフィーを膝に乗っけてキスしてたって、画家は平気な顔でそれらしい絵を仕上げてくれると思うよ」
くすくす笑うラースリオンを、ユーフェミアは顔を赤らめて睨んだ。ラースリオンは思わせぶりに耳元で囁いた。
「明日試してみようか」
「えっ……、な、何!?」
いきなり膝に乗せられて当惑するユーフェミアに、ラースリオンが蠱惑的に微笑む。
「予行演習」
言い返す暇もなく唇をふさがれた。驚きはすぐに恍惚に変わり、ユーフェミアはラースリオンの背に腕を回した。
しばし甘いキスを堪能し、ユーフェミアは気になっていたことをおずおずと言ってみた。
「……あのね、ラースリオン。肖像画のことなんだけど」
「何かご希望でも?」
「ヴェルメリオも一緒……というわけにはいかないのかしら」
ラースリオンは軽く眉を垂れた。
「僕もそうしたいのはやまやまだけど……。結婚記念の肖像画だからね」
「そうよね……」
「ギャラリーには飾れないけど、私室用に描いてもらおうか。三人一緒に」
「本当?」
ユーフェミアは嬉しくなってラースリオンに抱きついた。ふたたび舌を絡めあっているとノックもなくドアが開いた。入ってきたヴェルメリオが、ふたりを見てニヤリとする。
「お熱いね。画家の前でもずっとそうしてたわけ?」
「まぁね」
平然と微笑むラースリオンに、ユーフェミアは仰天した。
「ち、違うわよ! ちゃんと座ってたわ」
「ラースの膝の上に、だろ?」
「違うってば!」
じたばたしながらユーフェミアは赤面して叫んだ。膝から降りたくてもがっちりと腰抱きにされて動けない。
ソファに歩み寄り、ヴェルメリオはユーフェミアの顎を指先で掬い上げた。
「嘘ついたって、明日になればバレちゃうぞ?」
ラースリオンとヴェルメリオは記憶を共有している。ふたりの記憶が一致しないのは起きてから寝るまでの間だけだ。
ユーフェミアは悪戯っぽく微笑む黄玉の瞳を悔しげに見返した。
「本当よ……。本当にちゃんと座ってたんだから。明日になればわかるわ」
「そうそう。お人形さんみたいにきちんとね」
くすくす笑ってラースリオンは機嫌を取るようにユーフェミアの頬にくちづけた。ヴェルメリオが破顔してユーフェミアの唇をふさぐ。ユーフェミアは顔を赤くして交互に双子を睨んだ。
「もう……、ふたりしてわたしをからかうんだから」
「エフィーが可愛いからさ」
甘い声でラースリオンが囁く。身を起こしたヴェルメリオが背後をくいと親指で差した。
「午後のお茶の支度ができたって、タニアが呼んでるけど?」
「そうか。じゃ、行こうか、エフィー」
正装の襟をゆるめながらラースリオンが言う。ユーフェミアは彼の膝から急いで降りた。
「わたし、着替えてから行くわ。汚したらいけないから」
自室に取って返し、侍女のネネに手伝ってもらって着替えた。ネネは手早くやってくれたが、正装のドレスの脱ぎ着にはそれなりに時間がかかる。普段着のドレスに着替え、ネネを従えて双子の待つサロンへ向かうと、気がかりそうな顔をして侍女頭のタニアが現れた。
「どうしたの? タニア」
「それが、急なお客様がみえて……」
「お客様?」
タニアは何か言いたげだったが、ドアの前でいつまでも立ち話をしているわけにはいかない。サロンに入ったユーフェミアは自然と足を止め、テーブルに着いている見知らぬ少女をまじまじと見つめた。
いつもユーフェミアが座る席を、明るい栗色の髪と青磁色の瞳をした美しい少女が我が物顔で占領していた。
年頃はユーフェミアよりふたつみっつ年下らしい。ラースリオンは自分の席で困り果てた顔をし、ヴェルメリオは窓際に立っていらいらと頭を掻いている。
ユーフェミアに気付いた少女は、ぱっと華やかな笑顔になった。
「こんにちは! あなたがわたしのお姉様というわけね!」
「――は……?」
「わたしはリゼット。ヴェルメリオの婚約者よ」
ユーフェミアはぽかんとし、まずは少女の隣のラースリオンを、次いで後ろに立っているヴェルメリオを見た。
ラースリオンは気まずそうに眉を下げ、ヴェルメリオは必死で『違う』と身振り手振りに加えて口パクでユーフェミアに訴えている。
ユーフェミアは得意そうな顔つきの少女を改めて眺めた。少女はにっこりと輝くような笑顔になった。
「リリって呼んでね、お姉様」
ユーフェミアの内面がたぷんと波打ち、次いで爆発した。
(――――どういうことなの ――――!?)
「だから、子どもの口約束だって!」
ユーフェミアの居室でヴェルメリオが絶叫する。
クッションを抱え込み、ソファの隅からユーフェミアは疑いの目で彼を睨んだ。隣に座ったラースリオンはなだめるように手を握ろうとしたが、そっけなく払いのけられてうら悲しげに手を引っ込める。
「本当なんだよ、エフィー。僕らはずーっとエフィーを奥さんにするつもりだったんだから、他の女性と婚約なんかするわけないじゃないか」
「でも、五年前からの約束だって、あの子……リゼットは言ってたわ。五年前はまだわたし、あなたたちと― ―アズゥと出会ってない」
「エフィー。僕らは夢できみと出会った後、きみの生まれる前の時代に行ってこの世界に生まれてきたんだ。五年前どころか、ずっと前からきみのことは思い出していたよ」
辛抱強く言い聞かせるようにラースリオンが訴える。いらいらと歩き回っていたヴェルメリオも足を止めて大きく頷いた。
ユーフェミアはますますきつくクッションを抱きしめ、拗ねた口調で呟いた。
「だったらどうして、そんな約束……」
「だからさ、適当にあしらっただけなんだ。リリがあんまりしつこくて。どうせ子どものことだからすぐに忘れるだろうと」
リリ ――リゼットはルベド大公国の公女で、ラースリオンとヴェルメリオの従姉妹にあたるのだそうだ。
ルベド大公国は大陸にいくつか残る公国のひとつ。ニグレド同様、古い魔法の名残を留める国である。二国は直接境を接してはおらず、間にファルファラという中規模の王国を挟んでいる。ファルファラはユーフェミアの故国ブランシュと同じく、魔法の失われた国だ。
「リゼット公女は当時十歳でしょ。そういう約束を忘れるわけないわよ」
「別に、はっきり結婚の約束をしたわけじゃない。リリがもう少し大人になったら考えてみるよって言っただけで……」
「彼女の記憶でははっきり約束したことになってるみたいだけど?」
つんけんと尋ねると、ヴェルメリオは慌てて手を振り回した。
「それは捏造だ! リリの思い込みだよ」
「そうだよ、エフィー。記憶があやふやなのはリリも認めてただろ?」
「ええ。あなたたちのどちらと約束したのかわからない、とは言ってたわね」
ユーフェミアは剣呑な目つきで交互に双子を睨んだ。
「――で、どっちが約束したの?」
ラースリオンとヴェルメリオは顔を見合せた。
「どっちだっけ?」
「おまえだろ」
「いーや、おまえだ」
「……俺かな?」
「僕かも……」
うーん、とふたりそろって首を捻る。ユーフェミアは溜息をついた。魂を分け合うふたりは、眠れば双方の記憶がごっちゃになってしまうのだ。どちらが経験した記憶なのか、はっきり区別できないことのほうが多い。
しかしリゼットにとって、どちらと約束したかについてはどうでもよいらしかった。あっけらかんと彼女は言った。
『双子なんだからどっちでも同じよ。ラースリオンは正式に結婚しちゃったでしょ? そうなると、必然的にわたしの相手はヴェルメリオということになるわね』
三人が唖然とする中、リゼットは悠然と紅茶を飲んでにっこりした。ヴェルメリオは咳払いをし、意識的に深刻そうな顔で告げた。
『あー。実は俺、魔物に取り憑かれた影響で色々と変わっちまって。きみにはもうふさわしくないんじゃないかな~、と……』
『そのことなら知ってるわ。黒髪も素敵よ、ヴェルメリオ。黄色い瞳も珍しくていいわ』
……それとなく断ったつもりが、何の効果もなかった。
ユーフェミアはますます依怙地な気分になって、ソファの隅で縮こまった。ヴェルメリオはほとほと困り果てた顔でユーフェミアの前にひざまずいた。
「機嫌直してくれよ、エフィー。わかってるだろう?俺が愛してるのはエフィーだけなんだから」
「きっと約束したのは僕だと思う。ヴェルならそんな一時しのぎの約束なんかしないで、うまいこと逃げられただろうし」
そうだとしても、腹立たしいのは一緒だ。約束をしたのがどちらであろうと、ふたりは究極的にアズゥという名の同一人物なのだから。
「……もういいわ。どうせわたしが欲張りなのよ」
「エフィー……」
髪と目の色だけが異なる双子が、同じ顔つきでしょんぼりと眉を垂れる。ふたりを責めたところで仕方がないのはわかっていたが、それでも嫉妬心を鎮めることができず、ユーフェミアはそっぽを向いて唇を噛んだのだった。
「――で、どうする?」
弟の問いに、ラースリオンは嘆息した。ふたりは満天の夜空の下、城のテラスにいた。初秋の涼しい夜風がそよ吹いている。
リゼットが押しかけてきて二日目の夜。昨夜はふたりともユーフェミアの寝室に入れてもらえず、それぞれ寂しく独り寝したのだった。
ユーフェミアはよほど腹を立てているようで、夢の世界にも現れず、双子は本来のアズゥとして彼女の機嫌を取ることさえできなかったのだ。
はぁ、とラースリオンはうらぶれた溜息をついた。
「どうするも何も……。おまえをリリと結婚させるわけにはいかないよ。僕まで彼女と結婚したことになっちゃうだろ」
「だよな」
「それにしても、リリは何だってこんなに突然やって来たんだろう? 仮にもルベドの公女なんだから、こっちだって相応にもてなすための準備がいる。それくらいわかってるだろうに」
「連絡なかったのか?」
「全然。だいたいルベドとはエフィーとの結婚報告に対する返事が来て以来、何もやりとりしてないんだ」
「母上が亡くなってから疎遠になったままだもんなぁ」
ヴェルメリオはテラスの手すりに肘をつき、夜空を見上げながら呟いた。その隣で、ラースリオンは逆向きに手すりに寄りかかった。
「ルベドには使いを出しておいた。今回の訪問、両親はちゃんと知ってるってリリは言い張ってるけど、どうも怪しいと思う。彼女の召使たちも妙にそわそわと落ち着きがないだろ?」
「ひょっとして家出か? 気に食わない結婚話でも持ち上がって、だったらイトコの俺たちのほうが気安くていい、とか」
「ありえなくもないな。リリは昔から頭に血が上りやすい質だから」
「参るよなー。エフィーがすっかりむくれて口もきいてくれない。ま、たまにはヤキモチ焼かれるのも悪い気分じゃないけど」
「まぁね」
にやにやするヴェルメリオに、ラースリオンが苦笑する。
物陰から双子の会話を盗み聞きしていたユーフェミアは、この台詞に眉をキリキリ逆立てた。
(何よ、勝手なこと言って!)
やっぱり寝室には入れてあげない! とユーフェミアは思い直した。昨夜はちょっと大人げなかったかなと反省して謝ろうと待っていたが、いつまでたってもどちらも現れないので様子を見に来たというのに。
(人の気も知らないで……。自分たちもヤキモチ焼いてみればいいんだわ。どんな気分かよーくわかるでしょうよ)
足音を忍ばせて引き上げようとして、ふっとユーフェミアは息を止めた。このところ涼しさを増した夜風を受けてうっすらと肌が粟立つ。薄い夜着しか身につけていなかったユーフェミアは急いで両手で口許を押さえたが、間に合わなかった。
「――っくしゅ!」
他愛ない会話を続けていた双子の声が、ぴたりと止まる。
「……今何か聞こえなかったか?」
「マゼンタ色のネズミがいるみたいだな」
声もそっくりなのでどちらがどちらの台詞かわからないが、揃ってにや~りと笑う表情までくっきりと思い浮かぶ。慌てて逃げようとしたユーフェミアの腰を、誰かが掬うように抱き留めた。
「捕まえた」
ニヤリと笑ったのはヴェルメリオだ。抗う暇もなく横抱きにされてしまう。
「見ろよ、ラース。すっごく色っぽくて可愛いネズミだぞー」
「は、離して! 下ろしてよっ」
室内に戻ってきたラースリオンがユーフェミアの顎を摘み、涼しげに微笑んだ。
「立ち聞きなんて、はしたない奥さんだね」
たしなめるように言われてユーフェミアは顔を赤くした。
「そんなつもりじゃ……」
「とにかく部屋へ行こう。エフィーが風邪をひくといけない」
頬を押しつけたヴェルメリオが、わざとらしく切迫した声を上げる。
「うわ、すごく冷えてるぞ! ラース、急いであっためてやれ」
「喜んで」
にっこり、とラースリオンが笑う。ユーフェミアはひくっと口許を引き攣らせた。有無を言わさずベッドに連れ込まれ、ラースリオンに組み敷かれてしまう。
甘い熱を与えられて悶える間ずっと、ヴェルメリオはベッドにもたれかかって床に座り、快楽に震えるユーフェミアの指の股を飽かず舐め続けていたのだった……。
疲れ果ててぐったりとしたユーフェミアを後ろから抱きしめ、機嫌を取るようにラースリオンが頬にくちづける。枕元に座り直したヴェルメリオは何度も吸われて紅潮したユーフェミアの唇をそっと指で撫でた。
「機嫌直して、エフィー」
背後でラースリオンが囁く。見上げればヴェルメリオの月色の瞳が優しく見下ろしていた。ユーフェミアは何だか急に泣きたくなって顔を伏せた。
「……いやなの、わたし。こんなふうに……欲張ってしまうのが」
「エフィーは欲張ってなんかいないよ」
「ふたりとも……好きなの……」
「うん。愛してる、エフィー」
完璧なユニゾンが甘く囁き返す。鼻の奥がつんとなった。うっとりとしてしまう、この囁き。ふたりから同時に愛を囁かれる時ほど、夢でしか逢えないアズゥが今ここにいるのだと実感できる時はない。
「ごめんね、エフィー」
背後で囁いたラースリオンが背中にそっとくちづける。ユーフェミアは自分の身体に回された彼の手に、自分の手を重ねた。
もう片方の手でヴェルメリオの手を握り、何度も唇を押しつけた。
「謝らないで。そうまでしてわたしと一緒に生きるためにこの世界に来てくれて、本当に嬉しいのよ。なのに揺れてしまう自分が情けなくて……。ごめんなさい、本当はそんな自分に腹を立ててただけなの……」
「リリに何か言われたのか」
真顔でヴェルメリオが尋ねる。ユーフェミアはためらって唇を噛んだ。
「……ヴェルメリオとも仲よさそうね、って……。別に勘繰って言ったわけじゃないと思う。そんな感じじゃなかった。ただ、わたしにヴェルメリオを独占する権利はないって。いくらそっくりな双子とはいえそれぞれ別個の人間なんだから、両手に花は虫がよすぎるんじゃないのって、そう言われただけ」
ラースリオンとヴェルメリオは互いにげんなりと顔を見合わせた。
「っていうか……、実際僕らは同一人物なんだけど」
「身体がふたつあるって、やっぱ面倒だなぁ」
ふたりは揃って溜息をつき、まったく同じ表情でしょんぼりと眉を垂れた。
「ごめんよ、エフィー」
うら悲しげなユニゾンに、ユーフェミアは焦った。
「だから謝らないでってば! それくらいのことで揺れちゃうわたしがいけないの。もっとどーんと構えてればいいのよね。ふたりともわたしを愛してくれてることはわかってる。ふたりの気持ちが別になることは絶対にないってことも。それは本当に、よくわかってるの……」
ラースリオンが背中からユーフェミアを抱きしめ、肩胛骨の辺りに唇を押し当てる。彼の手を握りながら、ユーフェミアは身を屈めたヴェルメリオと熱いくちづけを交わした。
「……やっぱり、リリに本当のことを打ち明けるしかないかな」
ラースリオンの呟きに、ヴェルメリオが眉根を寄せる。
「あんまり言いたくないな。できればおおっぴらにしたくないし、リリの性格だと信じるどころか怒りだすんじゃないかと思う」
「そうだな……。しかし、どうにかして早急にお引き取り願わないと」
「ラースは大公なんだから、弟の俺の結婚に口出しできるだろ?きっぱり断ってくれよ」
「もちろんそのつもりだけど、あんまりにべもなく断ってルベドの心証を悪くするのも避けたいんだよな。もしルベドの大公が乗り気だとしたら、ちょっと面倒だ」
ニグレドの公子であり、現在のところ跡取りでもあるヴェルメリオの結婚話はどうしても公的な問題になってくる。
「俺も、やんわりと何度も断ったんだけどな。通じてないのか無視してるのか……、リリの奴、昨日からはしゃぎっぱなしだろ」
「人の話、全然聞いてないな、あれは」
「ともかく、明日じゅうに折を見て、はっきり断る。昔のことは潔く謝っとくよ。だからエフィー、機嫌直してくれよな」
「怒ってなんかいないわ……」
優しく頬を撫でたヴェルメリオが、身を屈めて悪戯っぽく囁く。
「じゃあ、俺の相手もしてくれる?」
「えっ……。い、今?」
「今、すぐ」
思わず赤面すると、くすくすと背後でラースリオンが笑いだした。ユーフェミアは眉を吊り上げ、自分の胸をまさぐる彼の手をぺちっと叩いた。
「や、やっぱりちょっと恨むわ! あなたたちふたりを、あ、相手にするのって、大変なんだからっ……!」
「ごめんね」
笑み混じりのユニゾンが囁く。ラースリオンが身体を離すやいなや、代わってヴェルメリオによって目も眩むような抱擁を与えられた。
ラースリオンは悠然と片肘をつき、マゼンタ色の髪を一房とって愛しげにくちづけた。ヴェルメリオに抱かれてユーフェミアが精根尽き果てるまで、彼は機嫌よさそうにあれこれちょっかいを出してはユーフェミアの官能を煽り、横からキスを盗み取って楽しんだのだった……。
翌日も、リゼットはたいそうご機嫌だった。ちょっと異常なはしゃぎっぷりで、双子と愛を交わして気持ちが落ち着いたユーフェミアは次第にそれが気になり始めた。
(もしかして、何か悩みでもあるのかしら……?)
尋ねてみようにもリゼットは次から次へとしゃべり続け、ユーフェミアでさえ話題に付いていくだけで精いっぱい。双子のほうは完全に呆気に取られて、憮然としている。
切り出すきっかけが掴めなくてヴェルメリオは明らかにイラついていた。こうなったらしゃべり疲れるまで待つしかないと、ラースリオンは諦めの境地のようだ。
微妙に張りつめた緊張状態で、リゼットだけが小鳥のように無邪気にさえずり続けている。天気がいいから森へ行きたい、遠乗りしたいとリゼットが言い出すに及び、いよいよヴェルメリオの忍耐は限界に達した。
危うい平衡状態がついに崩れそうになった、まさにその瞬間。侍従が現れて唐突に来客を告げた。
「――今度は誰だ!?」
ヴェルメリオが珍しく凄い剣幕で怒鳴りつける。侍従はすっかりへどもどして口ごもった。
「ファルファラ王国の王太子、リュシオル殿下にて……」
ラースリオンが眉を上げると同時に、侍従を押し退けるようにひとりの男がサロンに入ってきた。二十代後半とおぼしき背の高い青年だった。彼はいきなり大声で叫んだ。
「リリ! ここにいたのか」
その場に居合わせた全員の視線がリゼットに集中する。リゼットは真っ赤になってしばし押し黙っていたが、気を取り直して高飛車に言った。
「どこにいようとわたしの勝手でしょ」
「あちこち探し回ったんだぞ。ニグレドの使者にたまたま行き会って、試しにきみのことを訊いてみたら城にいると言うじゃないか。本当に驚いた」
つかつかと歩み寄った青年が諭すように言う。口調に非難の響きはなく、心底ホッとした様子だった。
「さぁ、帰ろう。国のご両親がとても心配しておられる」
優しく差し出された手を払いのけ、リゼットはいきなりヴェルメリオに抱きついた。反射的にユーフェミアの眉が逆立つ。
「帰らないもん! わたしはヴェルメリオと結婚してニグレドに住むんだから!」
「あのな……」
辟易とヴェルメリオが顔をしかめる。リゼットはますますかたくなに彼にしがみついた。
「リュシオルなんか嫌いよ! 大嫌い! いつも自分勝手で、わたしのことなんかほったらかしで、礼儀知らずだわ! だいたい、いきなり押しかけてきて城の主に挨拶もしないなんて最低よッ」
「いきなり押しかけてきたのはおまえも一緒だろーが」
ヴェルメリオのうんざり声で、ようやくリュシオル王子は我に返ったらしい。慌ててラースリオンに向かい、正式な礼を取った。
「これは大変なご無礼を……! どうぞお許しください、大公閣下」
「お気になさらず。――お会いするのは初めてですね?」
親しく握手を交わしながらラースリオンが尋ねる。リュシオルは緊張を解いて頷いた。公妃として紹介されたユーフェミアの手をうやうやしく取り、礼儀正しく挨拶する。
「いや、こんなふうにお目にかかるとは、面目次第もありません。実は、リゼット公女とは先頃正式に婚約しまして……」
照れくさそうに頭を掻くリュシオル王子を、ユーフェミアと双子は唖然と眺めた。
「――なんだよ、ちゃんと相手がいるんじゃないか」
ホッとするヴェルメリオになおもがっちりしがみつき、リゼットは叫んだ。
「あなたとの婚約なんて取り消しよ!破棄するわ!」
「リリ……」
困惑しきってリュシオル王子が眉を垂れる。ユーフェミアは呆気にとられたままリゼットとリュシオルを交互に眺めた。
十五歳のリゼットに対し、リュシオル王子はどう見ても二十代の後半だ。後でわかったことだが、実際彼は二十七歳だった。しかも再婚である。
一回り以上も違うのは年齢だけではない。ユーフェミアよりも小柄なリゼットに対してリュシオル王子はとても背が高くて、双子より拳ひとつぶんほど上背がある。
お似合い……とは正直なところ今は言えないが、あと数年たてばかなり釣り合いがとれるのではないだろうか。リゼットは薔薇のように華やかな美少女だし、リュシオル王子も目許涼しい端整な顔だちである。
年齢差を見ればいかにも政治的な思惑による婚約っぽかったが、リュシオル王子が本気でリゼットのことを心配しているのは確かだとユーフェミアは直感した。
「――何があったんです?」
あくまで控えめにラースリオンが尋ねると、リュシオル王子は恥ずかしそうに目を伏せた。
「婚約が決まってからリゼットとはファルファラ城で一緒に暮らしています。結婚はもう少し先の予定なのですが、少々込み入った事情もありまして……」
どこでも御家の事情やら何やら色々とあるものだ。礼儀正しく頷いて、ラースリオンは先を促した。
リュシオル王子が訥々と語ったところによれば、しばらくの間は何事もなく穏やかに暮らしていたという。しかし父王が急に体調を崩したため、王太子のリュシオルが代わって政務を取ることになった。
異国での生活にもまだ慣れないのに、忙しさからすれ違いの日々が続いた。そしてある日突然、リゼットは姿を消してしまったのだ。
「……つまり、かまってもらえなくてヤケを起こしたってわけ?とんでもないワガママ娘だな」
呆れ顔でヴェルメリオが肩をすくめる。リゼットはキッと眉を逆立てた。
「リュシオルは全然乗り気じゃなかったのに、お父様にしつこく頼まれて仕方なくわたしと婚約したのよ! それくらいちゃーんと知ってるわ。それじゃあんまり可哀相だから、こっちから破棄してあげるの!」
「リリ……。私は本当にきみと結婚したいと思ってるよ」
真摯な声にもリゼットは依怙地に首を振る。
「おあいにくさま! わたし、あなたの前にヴェルメリオと結婚の約束をしてたの。約束は順番に守らないとね!」
「あのな、リリ。俺は――」
「それは無理だよ」
ヴェルメリオを遮るようにラースリオンが割り込んだ。
「ごめんね、きみと約束したのはヴェルメリオじゃなくて僕なんだ」
何を言い出すのかと、ヴェルメリオは呆気にとられて兄を見る。
「あの頃の僕らは本当にそっくりで、親でもよく間違えたくらいなんだ。きみに区別がつかなかったのも無理はない。でも、約束したのは僕なんだよ。しかも本気じゃなかった。その場しのぎの口約束。本当に悪いことをしたと思う。責任を取るべきなのはわかってるけど、きみも知ってのとおり、僕はユーフェミアと結婚してしまったからね」
にっこりと笑ってユーフェミアの肩を抱き寄せる。ぽかんとしたリゼットは、よろよろとヴェルメリオから離れた。寄る辺ない子どものように眉根を寄せ、すがるように双子を交互に見る。
「でも……、双子なんだから……」
「双子でも別々の人間。きみはユーフェミアにそう言ったね? そのとおりさ。僕のした約束をヴェルメリオに押しつけるわけにはいかない。わかるだろう?」
ヴェルメリオはホッとしたような呆れたような顔で頭を掻いている。真実とは真逆のことをさももっともらしく告げるラースリオンの隣で、ユーフェミアも何だか落ち着かなかった。
「さぁ、リリ。帰ろう。今までのことは謝るよ。ちゃんと話をしよう」
いとけない幼子をなだめすかすようにリュシオル王子が優しく促した。しかしリゼットは可愛い顔をくしゃくしゃとゆがめ、激しく首を振った。
「いや! わたし絶対帰らないっ……!」
「リリ……」
「いやっ」
「おい、いつまでも意地を張るなよ」
叱りつけるヴェルメリオをラースリオンが穏やかに制する。リュシオルは力なく嘆息した。
「……申し訳ありませんが、もうしばらくリゼット公女を預かっていただけますか? ルベドには私から連絡しておきます」
ラースリオンに目線で問われ、ユーフェミアは小さく頷いた。承諾の返事を受け、リュシオル王子は改めて突然の乱入を詫び、重い足取りでサロンを出ていった。
しん、と部屋が静まり返る。ヴェルメリオは溜息混じりに吐き捨てた。
「……ったく、突っ返しちまえばよかったのに」
「本人が嫌がってるなら、無理強いはしたくない」
穏やかにラースリオンが答える。ヴェルメリオは処置なしとでも言いたげに肩をすくめた。
ユーフェミアは立ち尽くしたまま黙り込んでいるリゼットをそっと窺った。赤らんでうつむいた顔は今にも泣きだしそうだ。握りしめた拳がかすかに震えているのを見て取ると何だかたまらなくなって、ユーフェミアは急いでリゼットに歩み寄った。
「リリ。本当にこれでいいの? あの人のこと、本当は好きなんじゃない?」
リゼットは答えず、ぷいとそっぽを向いてしまう。こわばった少女の肩に、ユーフェミアは静かに手を置いた。
「ねぇ、リリ。あなたがすごく腹を立てているのはわかるわ。でもね、だからこそ自分の心に耳を澄ませてみて。あなたの心は何て言ってるかしら」
「……わかんない。何にも聞こえないわ。ただむちゃくちゃ怒ってるだけ」
「それじゃ、わたしがひとつ質問するわね? どちらを選ぶか、あなたの心に訊いてみて」
「リュシオルが好きか嫌いかって言うなら、嫌いよ!」
「そうじゃないわ。わたしが訊きたいのは、今、あなたが彼を追いかけたいかどうかってこと。それだけよ」
リゼットは目を瞠り、ユーフェミアを見返した。ユーフェミアは微笑んで頷いた。
「訊いてみて、リリ。あなたの心は何て言ってる? 何て叫んでる?」
もどかしげに少女の唇が震える。リゼットはものも言わずにサロンを飛び出していった。ラースリオンがユーフェミアの肩を抱いて微笑んだ。
「お見事」
「エルザ姉様の受け売りよ。迷った時は自分の心に訊いてみなさいって」
すべては自分で見つけられる。必要なものはすべて、自分自身の中にある。でも、感情に振り回されて、人はすぐにそれを忘れてしまう。
「感情は嵐のようで、自分ではどうにもならない……。だけど、今、ここで、どうしたいのかをよく考えてみれば、進むべき方向くらいはどうにかわかると思うの」
「ああ、そうだね」
ラースリオンがユーフェミアの額にくちづけると、窓から下を見下ろしていたヴェルメリオが歓声を上げた。
「リリが出てきたぞ。おー、走ってる走ってる。間に合うかな?」
ユーフェミアは急いで窓辺に歩み寄った。隣でラースリオンが呟く。
「――あ。転んだ」
「駄々っ子みたいに泣きわめいてるぞ。回収しにいくしかないかなぁ」
ハラハラしていたユーフェミアは、視線を上げてパッと破顔した。
「待って。……ほら!」
「ハハッ、王子様が戻ってきたぞ。やったね、お持ち帰りしてもらえそうだ」
小気味よさげにヴェルメリオが笑う。ラースリオンは感心したように苦笑した。
「熱烈なキスだな……。年は離れてるけど、実はお互いべた惚れなんじゃないか?」
「まったく迷惑だよな。痴話喧嘩に他人を巻き込むなっての」
ファルファラの王子とリゼットの一行がバタバタと去り、ようやくニグレド城に平穏が戻ってきた。
「――さて。きみは今、ここで、どうしたい? エフィー」
にっこりとラースリオンに問われ、ユーフェミアは小首を傾げた。
「そうね……。とりあえず、今は三人だけの時間を静かに楽しみたいわ」
「悪くない」
ヴェルメリオがにやりとする。愛しい双子に挟まれて、ユーフェミアはこの上なく幸福だった。
「わたしってすごく贅沢よね」
しみじみ呟くと双子は揃って爽快な笑い声を上げ、左右からユーフェミアの頬に愛のこもったキスをしたのだった。
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