マダム・コレットの学院にて
『雇われフィアンセの蜜命~子爵の甘い誘惑~』にてページ数の関係でカットした部分です。元原稿では駅でのアーサーとの出会いの後に入り、馬車のシーンに続いていました。
「ロウィーナ。あなたにお客様がみえていますよ」
数冊の本を抱えて廊下を歩いていたロウィーナは、寮母に声をかけられ足を止めた。
「お客? わたしにですか?」
「そうですよ。面会室でお待ちになっていますから急いでね」
「はい、すぐに」
ロウィーナは頷き、急いで自室に本を置いて面会用のサロンに向かった。
(わたしに面会なんて誰かしら。父さんが迎えにきてくれた……わけないわよね)
まだ卒業までには半月以上ある。最近の――といっても二月くらい前だが――手紙にもそのようなことは書かれていなかった。それに、父が来たなら寮母はそう言ってくれるはず。
ロウィーナはどきどきしながら面会室の扉をノックした。
パリ郊外、ヴェルサイユの近くにあるマダム・コレットの寄宿学校に入ってかれこれ三年、家族以外の面会人など一度も来たことはない。その家族とも、母が亡くなって以来もう一年も会っていなかった。
「どうぞ(カムイン)」
平淡な口調の英語が返ってきて、ロウィーナは目を瞠った。フランスの学校までイギリス人が訪ねてくるなんて……。おそるおそる扉を開けると、ロココ様式の優美な椅子に見知らぬ黒髪の青年が腰掛けていた。
年頃は二十代の後半だろうか。彼は灰青色の瞳でロウィーナを冷やかに眺め、座るように身振りで促した。
ロウィーナはおずおずと向かいの椅子に座った。青年は黙ったまま観察するようにこちらを眺めている。すごく居心地が悪い。
「ミス・ロウィーナ・アビントン。間違いありませんね?」
「はい」
いぶかしく思いながらロウィーナは頷いた。青年はにこりともせず、冷たい視線のまま軽く会釈をした。
「私はトーマス・リドリーと申します。イギリスの貴族、ウィングフィールド子爵の顧問弁護士を務めています」
「はぁ」
わけがわからないままロウィーナは相槌を打った。貴族の顧問弁護士が、いったい自分に何の用があるというのだろう。
フランスの女学校に留学中といっても、事業をしている父にそこそこ資産があり、母が教育熱心だったというだけだ。ロウィーナはいたって平凡な中流階級の娘である。
「ミス・アビントン。回りくどい言い方は好みませんので単刀直入に言います。あなたのご実家は破産しました」
ロウィーナはリドリー弁護士をぽかんと見返した。単刀直入すぎて、言葉と意味が脳内でうまく結びつかない。
「……あの。破産、とおっしゃいました……?」
「そうですよ。もしかして破産の意味をご存じないのですか?」
「知っています!」
「それはよかった。煩わしい説明をしなくてすむ」
「要するに父が一文なしになったということでしょう? ……つまり、わたしはもうここにはいられないということなんですね」
あと半月で卒業なのに。いや、もうほとんど授業らしい授業もないから、それほど残念がることはないのかもしれない。そう考え、ロウィーナはふと引っかかった。
「でも、どうしてあなたが知らせに? うちではなく、えぇと、何とかいう貴族の顧問弁護士なんですよね」
「ウィングフィールド子爵です」
今度は彼がムッとした顔で言い返す。彼の無表情に綻びが生じるのを見て、ロウィーナは少しばかり気が晴れた。彼にも感情はあるらしい。しかし綻びはたちまち繕われ、リドリー弁護士はいっそう冷やかさを増してロウィーナを眺めた。
「私の雇用主であるウィングフィールド子爵は、アビントン家の住まいであった館を購入されました。正確に言えば、銀行から抵当権を買い上げたのです。アビントン家は破産したうえ夜逃げしましたので、あの館はすでにウィングフィールド子爵の持ち家となっており――」
「ちょ、ちょっと待ってください! 今、夜逃げって言いました……!?」
「言いましたよ。あなたの父君は破産し、借金を踏み倒して夜逃げしたのです」
淡々と告げられ、ロウィーナは今度こそ眩暈を感じて椅子の背にもたれた。
「……弟は? ティモシーはどうなったんです!?」
「同じく行方不明ですね。父君に連れられていったのでしょう」
「そんな……」
実家が破産したのはもちろんショックだ。父は事業に関わることは一切手紙に書かなかったから、ロウィーナの知らないうちに経営が苦しくなっていたとしてもおかしくはない。しかし事業というのはうまく行くこともあれば失敗することだってある。破産という事実はショックであっても何とか受け入れることはできた。
だが、夜逃げ別だ。自分に何ひとつ知らせることなく姿を消してしまうなんて。家族なのに、いくらなんでもあんまりではないか。
母が亡くなって一年と少し。残された家族は父と弟とロウィーナの三人だけ。この世でたった三人きりの家族なのだ。逃げるなら自分も連れていって欲しかった。
破産よりも家族に置いて行かれたことのほうがずっとショックでロウィーナは放心した。さすがの冷血弁護士も少しは気の毒に思ったようで、気づかわしげに声をかけてくる。
「ミス・アビントン。大丈夫ですか」
「……大丈夫……じゃ、ありません。ショックです……」
「そうでしょうね」
気まずそうにリドリー弁護士は咳払いをした。
(破産に夜逃げ……。それじゃ、一文なしのうえに行くあてもないということ……?)
手元に現金はいくらあっただろう? イギリスに帰る旅費をまかなえるだろうか。それともフランスで職探しをすべき? 校長先生に頼んで、教師の助手か、だめならメイドとして雇ってもらえれば……。
ぼんやりした頭で逃避のように埒もなく思い巡らせていると、ふたたび咳払いをした弁護士が、しかつめらしい顔で切り出した。
「ミス・アビントン。実はここからが本題です。ウィングフィールド子爵は、あなたの身の振り方が決まるまで館に住んでもらってかまわないと言っています」
ロウィーナは虚ろに護士を見返した。
「あそこはもう子爵のものなんでしょう……?」
「ええ、もう引っ越しも済みました。外見以外、かつての面影はないと思ってください。家具調度の類は競売にかけられましたし、以前の使用人は解雇するか余所に移りましたから」
「子爵のご家族は?」
「母君と妹君がいらっしゃいますが、おふたりは元のお住まいに残られました。館に住むのは子爵おひとりです。それと、あなたですね。もし承諾されれば、の話ですが」
ロウィーナは迷った。行くあてもお金もない。校長先生に頼めば何とか学校に置いてもらえるとは思うが、フランスに残ったら家族を探すこともままならない。
(少なくとも、イギリスに戻れば手がかりを探せるわ……)
ここに居残ってただ嘆いているよりずっといい。ロウィーナは決意を固めて頷いた。
「……わかりました。ご好意に甘えさせていただきます」
「単なる好意ではありませんよ。代わりに仕事をひとつお願いしたいのです」
「何でしょう? わたしにできることならなんでもしますけど」
「では、子爵の婚約者になってください」
みたびロウィーナはぽかんとした。このショックの雪崩打ちはいったい何。破産と夜逃げだけでいっぱいいっぱいなのに、住む場所を確保したかったら見知らぬ相手と結婚しろ……!?
うろたえるあまりロウィーナは立ち上がって叫んだ。
「わ、わたしに子爵と結婚しろと言うんですか!? そんな、顔も知らない、会ったこともない相手といきなり結婚だなんて、時代錯誤もはなはだしいわ!」
「結婚しろなんて一言も言っていません」
「婚約しろって言ったじゃないですかっ」
「婚約者になっていただきたいと言っただけで、婚約しろとも言ってません」
侮蔑まじりの冷やかな視線を受け、ロウィーナは唇を震わせた。
「どういうことですか……!?」
「ともかくお座りなさい」
しぶしぶ腰を下ろすと、弁護士は足元に置いていた鞄から書類を取り出した。
「あなたに頼みたい仕事というのは、ウィングフィールド子爵の偽の『婚約者』となることです。むろん本当の婚約ではない。あくまで雇用関係です。その辺は誤解しないように。別に玉の輿に乗れるというわけではないのですからね。――詳しい条件はこちらに書いてあります。まずはひととおり目を通してください」
ロウィーナに書類を渡すと、弁護士は口頭でも説明を始めた。
「契約期間はとりあえず三か月。期間については子爵の判断で適宜伸ばすことができます。契約期間中、子爵はあなたの衣食住すべての面倒を見、快適かつ不自由のない生活を保証します。その代わり、あなたは子爵の婚約者としてふさわしい態度、服装、所作を持って彼に接し、体調が優れない場合を除いて観劇やパーティーなど外出の誘いを決して断らないこと。婚約中のカップルとして世間一般が認めるふるまいを嫌がらないこと」
ロウィーナは契約書をつぶさに眺めた。契約条項は非常に簡素なもので、弁護士が口頭で述べたことでほとんど全てだった。
「あの。『世間一般が認めるふるまい』って、何ですか」
「公衆の前で腕を組んで歩いたり、挨拶のキスを交わしたりすることです」
ロウィーナはホッとして頷いた。それくらいなら我慢できるだろう。……たぶん。
「契約終了がいつになるのかは決められていないんですね」
「それは子爵が判断します。そう長くはならないでしょう。せいぜい半年くらいだと思いますよ。そこにも書いてありますが、契約終了後、あなたには相応の報酬が支払われます」
書かれた金額を見てロウィーナは目を瞠った。これだけあればロンドンでメイドとコック、下男を雇っても数年は悠々と暮らせそうだ。
「……子爵はずいぶんと気前のよい方なんですね」
「満額を受け取りたければ、せいぜい完璧な婚約者を演じることです」
厭味たらしい口調に、ふとひらめく。
(この人、きっと計画に反対なんだわ)
断らせようと、わざと厭味な態度でロウィーナを挑発しているに違いない。確かに彼の態度は不遜で不快だったが、生きていくにも父と弟を探すにもお金がいるのは事実だ。
見知らぬ相手の『婚約者』を最長でも半年務めるだけで、これだけ報酬が得られるなら悪い話ではない。それに、婚約中――契約中と言うべき?――のあいだにも、家族を探すことはできるはず。
「――あの、ひとつ訊いてもいいですか。どうしてわざわざ偽の婚約者なんかでっちあげたりするんです?」
「それは申し上げられません。子爵から直接お訊きになってください。納得いかないなら断ってくれてもかまいませんよ」
(やっぱりわたしを怒らせて断らせるつもりね)
あいにくそうはいかない。子爵が何を企んでいるのか知らないが、今は差し出された手を掴むしかないのだから。
「わかりました。契約します」
ロウィーナの答えを聞いて、リドリー弁護士は残念そうな溜息をついた。彼がこの計画に乗り気でないことが、これではっきりした。
「そうですか。では署名を」
渡されたペンで、ロウィーナは二部の書類にサインした。リドリー弁護士は書類を確認すると、片方を差し出した。
「こちらの控えは大切にしまっておいてください」
弁護士は書類を鞄にしまい、ふくらんだ封筒を差し出した。
「これで貴族の婚約者として恥ずかしくない服や小物類を必要なだけ買うように。パリで買い物しても充分足りるはずだ。余った分はあなたのお小遣いにしてかまいませんが、だからと言ってケチらないようにお願いしますよ。それから、服はあくまで上品なものを。地味すぎても派手すぎてもいけない。……あなたにそのセンスがあればいいんですがね」
見栄えのしない服だと言いたいのだろうが、今着ている肩口がふくらんだジゴスリーブの黒いワンピースはここの制服だ。
「ご心配なく。とてもセンスのいい貴族出身の友だちがいますから、彼女に選んでもらいます」
「それを聞いて安心しました。――では、のちほど船と汽車のチケットなどをお送りします。ああそれから、卒業まではここにいてかまいませんよ。ここの学費は一年分前払いですからね。子爵は非常に裕福な方ですが無駄遣いは嫌いです。最後までしっかり勉強するように」
嘲笑うように微笑して、若き弁護士は面会室を出ていった。ロウィーナは淑女らしく膝を折って見送り、肩を落として嘆息した。
控えの契約書を改めて眺め、ロウィーナは首を傾げた。
(ウィングフィールド子爵……。どんな人なのかしら)
そういえば年格好を聞きそびれた。追いかけて問いただそうかと思ったが、あの様子でははぐらかされそうな気がする。
(会えばわかるわ。ヨボヨボのお年寄りでもデブでもハゲでも口臭がひどくても、半年間は我慢するしかないんだから……)
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